banner

佐太神社御由緒

摂末社など

摂末社など

 

田中神社
田中神社(たなかじんじゃ)
 田中神社は本社北殿の摂社で当社から東へ100メートル離れた飛地に二つのお社が背を向けて建っています。佐太神社の御本殿に向かっているのがいるのが西社で木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祀り、縁結び・安産、背を向けて建つ東社は磐長姫命(いわながひめのみこと)を祀り縁切り・長寿の信仰があります。
これは本社北殿の御祭神瓊々杵尊(ににぎのみこと)との物語りに由来します。瓊々杵尊は姉の磐長姫命と妹の木花開耶姫命を娶りますが姉は容姿が醜かったので親元へお返しになったというもので、縁切りの御利益がある神社は全国的にも珍しいようです。男女の悪縁をはじめなかなか断ち切れない様々な悪縁を除くため、参拝、御祈念に訪れる方が多数あります。

 
母儀ノ人基社
 
母儀人基社(はぎのひともとしゃ)
 当社は中世を通じ伊弉冉尊の陵墓である比婆山の神陵を遷し祀った社と伝え、「伊弉冉社(いざなみのやしろ)」として信仰されていました。神社境内南側の奥にある三笠山(みかさやま)に続く石段を50メートルばかり登って行くと磐境(いわさか)があり、伊弉冉尊を祀る母儀人基社があります。
 おそらくは、古代祭祀の対象であり、社殿創建以前の御神座ではないかと思われます。古くから子宝、安産ご利益があるとされ信仰があります。
 祭日は4月15日で佐陀宮内の敬神婦人会が主催して祭を行っています。

 手水舎・隨神門
 
手水社(ちょうずしゃ)
 天明年間、松江城下の水害を防ぐため等の目的により松江藩の命で、宍道湖と日本海をつなぐ人工の運河佐陀川が開削されました。当社の手水鉢は天明六年九月、清原太兵衛が当社の神池"身澄池(みすみがいけ)"を切り開くに当たり神威をおもんばかり神社に寄進したものです。
 身澄池は古来より沐浴すると不浄を取り除くと伝え、今でも忌明けの際にはここにお参りする風習が残っています。
 佐陀川開削工事の難所であった潟ノ内(かたのうち)と鵜灘(うなだ 現:鹿島町名分の地)は地盤が緩く堀上げた川路が一夜にして崩れてしまうありさまで佐陀川の開削は一向に進捗しませんでした。太兵衛は佐太の神領地を冒した事で神の怒りに触れたと考え、自ら江角浦(現:鹿島町恵曇)で斎戒して当社に日参すること百日に及んだといいます。
 手水鉢は神社東方にある恵美山(えびやま)より切り出した横8尺、縦6尺、高さ5尺の大石で、当社の御神紋である扇の形に穿ってあります。

 弓石
 
弓石(ゆみいし)
 境内中庭から本殿に上がる正面の石段脇に2つ石が地から突き出るように立っています。この石は弓石といって佐太大神が加賀の潜戸でお生まれになった神話に因むものと伝えますが、佐陀大社縁起には御祭神伊弉諾尊が神社の東方にあたる大葦 的庫山にむけて弓を射て、その弓が地に落ちて岩となった その岩は半分に折れて国庁の南の側(ホトリ)に有る岩がこれである 旨が記されています。(国庁とは現在の舞殿の古称です)
 雲陽誌(うんようし)には「社中庭にあり一石は長さ四尺一石は長さ三尺古は正月七日弓始の時騎馬十人庭中にて列て是を射今は神事絶えたり」と記されています。残念ながらどのような祭りだったのか今ではわかりません。また正中殿の御祭神 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が射った弓矢が落ちたところに生じた石だとも伝えます。

 
早人(はやと)
 早人は現在本社南殿、北殿の中に祀られおり一般に
公開されておりませんが当社の御神秘として様々な記録が残っています。隼人、速人とも作り、佐陀大明神縁起によると早人について『異国より毛胡利1,000人余が日本国に乱入し、この島根郡に推し渡って来た時、たくさんの松が、俄に大地から生え出て来た。
伊弉諾尊が、これを御覧になり、奇瑞(めでたいことの前兆として現れた不思議な現象)であるとして、この地に陣屋を構えて胡敵からの攻撃を防衛なさった時、その松が変じて数千騎の軍兵となった。そのため、胡敵は大いに怖れて、退却または戦死した。その中に生捕にした者が88人居た。皆が伊弉諾尊に申し上げるには、我等の願いは、今から貴尊の配下の者となって、当社を守護させてもらいたい云々。伊弉諾尊はこれをお許しになった。そういう訳で、その像を刻んで今に伝わって居り、必ず天下の吉凶を告げるのである。』という旨が記されています。
 古来より早人が飛び去る(高檻から木像が落ちることか?)と天下に騒乱があると恐れられ、永正九(1512)年五月八日当社七不思議のなかに早人についての神秘が記されています。寧古齋談叢には慶長八(1603)年に龍蛇も上がらず早人像も飛び去ったとして藩主堀尾忠氏に謹慎すべき旨を達しましたが家臣が取り合わず忠氏はなくなってしまったことが記されています。
 また当社上官(じょうがん)注連祝(しめはふり)幡垣正仍の記した「正仍日記抄」によると貞享五(1688)年八月の遷宮に際して南北の社殿の中へ移されたことが記されています。

 

Copyright (C)2005 sada-jinjya all rights reserved