御由緒

 

御本殿三社


 当社は出雲國風土記に「カンナビヤマの麓に座す」佐太大神社(さだおおかみのやしろ)或いは佐太御子社(さだみこのやしろ)と見え、延喜式(えんぎしき)には佐陁大社(九条家本)、また出雲國二宮と仰がれ、出雲國三大社の一つとして杵築(きずき=出雲大社)、熊野、鎌倉時代においても杵築、日御崎とともに「佐陀大社」と称えられた御社です。

 中世には伊弉冉尊(いざなみのみこと)の陵墓である比婆山(ひばやま)の神陵を遷し祀った社と伝え旧暦十月は母神である伊弉冉尊を偲んで八百万の神々が当社にお集まりになり、この祭りに関わる様々な神事が執り行われることから当社を「神在の社」(かみありのやしろ)とも云い広く信仰を集めています。盛時には神領7千貫・神職224人を有し、年間七十余度祭禮が行われていたと云いますが、太閤検地で領地を減じられ神職75人となったと云われています。
 江戸時代を通じて出雲國10郡のうち佐陀触下(さだふれした)と呼ぶ秋鹿(あいか)・島根(しまね)・楯縫(たてぬい)・意宇(おう)西半の3郡半の神社を支配下に置き、歴代藩主の信仰も厚く、出雲國内でも重要な地位を占めてきました。

 また、旧暦8月24日・25日の御座替祭(ござがえさい)にはこの佐陀触下の神職・巫女が参集奉仕する慣わしで、この祭で舞われる神事舞が出雲國内をはじめ他の里神楽に大きな影響を与えたとされ「出雲神楽の源流」とも云われています。
 明治3年、神社制度の改革が行われこの触下制度は廃止となります。51社あった末社もそれぞれが村々の氏神として独立し20ばかりとなり、神領、神職とも大幅に減じ著しく衰退しました。しかし、佐陀宮内の氏子はじめ神領6ヶ村の旧氏子、その他多くの崇敬者による復興運動により、昭和3年国幣小社に列せられました。
 戦後は佐陀宮内地区の氏神社となっていますがその由緒・歴史から近郷諸所の惣氏神としてはもとより全国各地から広く信仰を集めています。
 様々な歴史的困難にもかかわらず、本殿三社をはじめ、国・県の指定文化財も多数有し、古伝の祭祀を守り受け伝えている点において神道学、民俗学等の面からも注目を置かれているところであります。
 
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